私的名曲① エレファントカシマシ「悲しみの果て」にある不要不急ではないもの

雑感

 エレファントカシマシにより、この「悲しみの果て」は1996年に発売されました。選ばれたシンプルな言葉、小賢しさを排除し全編クライマックスのようなアレンジと唄わざるを得ないという逼迫したボーカルで、胸に迫る名曲となり、もはや、J-POPのマスターピースのひとつとなっています。

 この曲の冒頭、聴き手は、まず裏切られることになります。それは、「悲しみの果てに 何があるかなんて」に続き、「俺は知らない 見たこともない」と唄われるからです。「悲しみの果て」についての回答を期待するところで、「俺は知らない」し、挙句「見たこともない」と述べられます。さらに、「ただあなたの顔」が「浮かんで」「消えるだろう」と唄われて、悲しみの果ての情景描写さえ阻まれます。

 しかし、曲の大サビでついに現れる、「悲しみの果て」の情景は、悲しみの極致にある絶望のような風景が描かれているわけでは無く、このように描かれます。「部屋を飾ろう コーヒーを飲もう 花を飾ってくれよ いつもの部屋に」と。

 この単なる「水」ではなく、嗜好品である「コーヒーを飲む」ことや、食べることも出来ない「花を飾る」ことのように、不要不急ではないものへの自由意志を取り戻した行為こそが、「素晴らしい」日々の本質であり、逆説的に、それを獲得できずに、抑圧された日々を我慢や質素、忍耐などのある種の美徳の思いで過ごす日々(あまつさえそれを新しい生活様式などと称し)などというものは、実は何者かに支配された「悲しみ」の真っ只中にいることを示唆しているのです。

 そして、曲の最終盤では、「悲しみの果て」には「素晴らしい日々を送っていこうぜ」が繰り返され、真っ暗闇からの明転を力強く宣言して終わります。

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