この曲を初めて聴いた後、歌詞カードをあらためて見た時には、衝撃でした。それは、歌詞の一部というよりほとんどが「」(かぎかっこ)で括られており、さらにその閉じられる位置が想定外だったことに対してです。耳で聴いていただけでは、そのことには、全く気付きませんでしたが、この括りには重大な意味がありました。
そのかぎかっこの始まりは、歌詞の冒頭の『「あがり目とさがり目の~』からで、どこで閉じられるのかを辿っていくと、何と、後半、2回繰り返されるサビのメロディーの2回目の歌詞の前、 ~卒業おめでとう ブラブラブラ…」まで続き、そこで閉じられていました。ワンフレーズを引用的に強調するために用いられていることもなく、ましてやAメロやBメロの終わりなどの区切りの良いところですらありませんでした。
そして、このかぎかっこが外れた直後に『紅(べに)塗った君がなんか~』と続く歌詞が現れ、一番の歌詞が終わりますが、この歌詞の前で、かっこが外されていることから、この「紅塗った「君」」の「君」というのが、その直前まで「」内で語っていた「自分」を指している人称であることに気付かされ、これまでのかぎかっこ内の人物(自分)が唐突に客観視されるという展開(いわゆるメタ構造)になっていることに、驚きを禁じ得ませんでした。
かぎかっこ内に「愛とか強調すると顔が変になるよ」という歌詞があります。これは、「モラリストが泣いてすがるイデオロギー(吉井和哉作詞・Romantist Tasteより)」的に万人を幸せに導くもののような意味として疑いなく「愛」というイデオロギーを表現(強調)をするならば、それは、自身が批判しているモラリストに対するニヒリストとしての立場で、その「愛」の意味を「色メガネ」を用いずプリミティブに考察したうえで「愛」を表現していないこととなり、自己矛盾を起こしてしまう(顔が変になる)ということを意味しています。
しかしながら、かぎかっこ内の歌詞の最後には「卒業おめでとう」という言葉が出てきます。これは、ニヒリストをやめて、これからは、上記のようなモラリスト的イデオロギーで物事を捉えていこうという自身の転向へのある種の自虐的な祝福になりますが、実際、直後に、かぎかっこが終わり、2番の歌詞の場合では、「紅(べに)塗った君がなんか大人のようにまとうんだ 似合うけどちょっとムリあった」と続きます。それは、そのように転向し、プリミティブではない虚飾ともいえる「紅」(既成のイデオロギーによる思想)を塗ったところで、成長した大人な振舞とはマッチしても、生得的にニヒリストである「君」にはムリがあるよねと皮肉を言っているのです。曲のタイトルが「プライマル。」(根源的(プライマル)な姿勢でいくのはもう終わり(。))なのに。
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